R&D(研究・開発)
ミンダナオの平和構築②(1960年代以降)
1960年代の世界的な学生運動や共産主義運動の盛り上がりと時期を同じくしてミンダナオでもイスラム教徒に分離独立のうねりが押し寄せた。
ミンダナオ以外からの入植者と先住民族であったムスリムとの対立が次第に激しくなっていき、68年にコタバトのマタラム知事らイスラム教徒の政治家らがイスラム共和国建設を目指して「ミンダナオ独立運動(MIM)」を結成。翌年には多くの若者がマレーシアで軍事訓練を受けるようになったという。またこの頃に「モロ民族解放戦線(MNLF)」が結成され、マレーシアで軍事訓練を受けた元 フィリピン大学講師のヌル・ミスアリを議長に迎えた。
このような背景をもとに先住民であるイスラム教徒と入植者であるキリスト教徒の対立という構図が次第に出来上がっていく。
ミンダナオへのキリスト教徒の入植を押し進めたマルコス大統領はついに72年、戒厳令を布告して独立運動を非合法化、武力鎮圧を試みる。イスラム分離独立主義勢力はそれまでの局地的な反乱からバンサモロ軍を創設したMNLFに糾合、内戦状態に突入する。
戦闘は激化の一途をたどり、イスラム諸国の圧力もあって問題が国際化するとマルコスは自治権付与を決意した。MNLFは最盛期で3万人の兵士を有したという。76年、フィリピン政府とMNLFは停戦に合意しトリポリ協定を締結。トリポリ条約では、ミンダナオやスールー諸島の14州の自治を約束した。
しかし、自治区設置に関する住民投票をめぐって再び対立、MNLFは投票をボイコットし決裂。この頃からMNLF内部で路線の対立が表面化、1977年に はミスアリ派、サラマト派(後にモロ・イスラム解放戦線へ発展)等諸派に分裂し、ヌル・ミスアリを指導者とするMNLFはより過激な諸派との競合の中でその勢力を次第に衰退の一途をたどる。84年に「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」を正式に結成するにいたった。
86年の革命後の新憲法にはイスラム教との自治に関する規定が盛り込まれ、アキノ政権の分離独立放棄を条件とした和平交渉の呼びかけにミスアリが応じ、 89年には自治基本法が成立。同法をめぐって混乱したもののミンダナオの13州9市で住民投票が実施された。
しかし、自治を受け入れたのはイスラム教徒が多数を占める4州(南ラナオ州、マギンダナオ州、スルー州、タウイタウイ州)だけで、これに対してMNLF はトリポリ協定による完全自治ではないと反発したものの、翌90年にARMMへの加入に賛成多数だったのはラナオ・デル・スル州、マギンダナオ州、スールー州、タウィタウィ州の4州だけであった。
不完全な自治にすぎないと いうMNLFによる反発の中、ARMMはこの4州だけで1990年11月6日にムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)が正式に発足した。
和平への努力―ラモス政権、エストラーダ政権、アロヨ政権
マルコス大統領からアキノ大統領の激動の時代を経て、ラモス政権ではNIESに2000年までに入ることを目標にした経済復興政策が採られた。
経済復興のために企業の誘致を考えたラモスは、内戦の終結にも力をいれ、各武装勢力との公式的な対話と和平に向けた具体的な交渉がスタートした。ラモス政権に続く、エストラーダ政権でも和平に向けての動きが続き活性化するものと考えられていたが、状態は悪化し、アロヨ政権までその課題は持ち越されてしまった。
アロヨ政権ではラモスの路線を引き継いだもののアメリカとの外交戦略、とくに2001年9月11日以降、和平・協調路線から離れ政府と各武装勢力との間は再び緊張関係となってしまった。
フィリピンの発展には外資の導入が不可欠だと考えるラモスが92年に大統領に就任すると、翌93年からジャカルタで本格和平交渉がスタート、暫定的な休戦協定が結ばれる。94年と95年に続いて96年の第4回和平交渉ではMNLF兵士の国軍編入問題や自治区に関する住民投票の実施、南部フィリピン平和開発評議会 (SPCPD)設置などで最終的に合意、9月2日に和平協定が調印された。
尚、過去を含めた和平交渉にはイスラム諸国の尽力が特筆される。和平協定調印 当日には日本政府も歓迎の意と支援の検討などを表明している。
第4回和平交渉を前に政府側はミスアリ議長をARMMの知事選挙において与党候補として推すことで合意。7月の選挙を経て和平協定調印後にミスアリの当選が決まり、SPCPDの議長にも就任した。
エストラーダ政権では、和平においては目立った進展が見られず、エストラーダが選挙公約として掲げていたムスリム社会の福祉の増進は当選とともに忘れ去られ、更には北ラナオ州でMILFと政府との間で戦闘が激化した2000年にはMILFに対して「全面戦争」をすると宣言。市民の激しい非難を浴びた。
このときは戦闘地域に住んでいない一般のムスリム教徒たちも、自分たちに対する攻撃と受け止め、危機感を高めた。同年3月には激しい戦闘が開始され、戦闘地域からの避難民の他地域への流入や道路の封鎖などのため、経済活動と市民の日常活動に多大なダメージを与えた。




