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ミンダナオの平和構築①(ミンダナオの歴史 現代まで)

 フィリピンのミンダナオでは、30年以上の長きにわたり、紛争が続いている。死者は約12万人、 紛争に伴う避難民は200万人に上るといわれている。(International Alertより)

 

 これまで幾度の和平交渉が行われてきたものの、20088月に交渉の決裂により武力衝突が再燃し、多数の死者と避難民を出した。

 その武力衝突のため、200812月以来、マレーシアが議長である国際停戦監視団(IMT ※1) は活動を停止していたが、武力衝突の沈静化により、2010年の228日から監視団はその活動を再開。現在、マレーシアが主導国となり、ブルネイ、リビア、日本などの国々と2つのNGOが停戦監視に参加している。

 

 今回の5回目の派遣となるIMT1回目から4回目までに行われてきた治安についての監視のほか、復興・復旧、社会経済的な発展に関する要素、一般市民の保護も含めての活動の拡大を図った(※2)。 (Minda Newより)

 ミンダナオの紛争の要因は複合的であり、上記のような公式的かつ国際的な停戦監視のみならず、地元のNGOや政府機関等の多くのアクターが関与し、色々な局面での平和構築のための活動を続けている。まずは、ミンダナオの歴史をふり返るところから、紛争のバックグラウンドを探る。

 

 フィリピンの南部に位置するミンダナオ島は、かつてルソン島やビサヤ地方の住民から「約束の土地」と呼ばれていた。

 

 大小7,000以上もの島からなるフィリピンで、ミンダナオ島は、ルソン島についで二番目に大きな島であり、未開の土地が広がっていると考えられ、その肥沃な土地は、20世紀初頭になると移民と天然資源の収奪の対象とされていた。ミンダナオ外からの入植者によってミンダナオでかつて大半を占めたムスリムや山岳部で生活をしていた民族は、入植者たちによって次第に相対化されて、少数となっていった。(※3 


 

 1960年代後半から1970年代の世界的な独立の運動のうねりの中で、ムスリムを母体とした自治権を求める団体が創設され、1970年代から中央政府に対しての武力闘争が開始され、さらにそれらの武装グループから分裂したグループと中央政府との武力衝突は今も続いている。

 

ミンダナオの歴史、ムスリム関係史―ミンダナオの二つのイスラムの王国の盛衰~スペイン・アメリカの統治

 

 マレー海域世界西部はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島は早くからインド文化を受容して、王国を形成してきたものの、東部は長く首長制が続き、中東と東南アジアを結ぶ海上貿易が盛んになり、イスラム商人、イスラムの宣教師が行き来する、1314世紀ごろから影響を及びはじめ、15世紀半ばに本格化し17世紀に入り本格的なイスラム王朝が成立する 。(※4)

 

 スールー王朝はマレーシアのサバを含めた地域で1450年に成立し、マギンダナオ王朝は1690年に成立。二つの地域は独自の統治システムを持ち、政治、経済、教育なども他の地域とは異なった。

 

 16世紀に入ると欧米諸国が香料を求めて、ミンダナオ島の南約500キロメートルに広がるマルク諸島に進出したことを契機として、その勢力をミンダナオに拡張し始めた。

 マギンダナオは1862年に王都コタバトがスペインに占領され(※5)、19世紀末にはスルタン (※6)を選出できないほどに衰退し、1876年に王都がスペインに占領されたスールーもスルタンの権威は失墜。

 

 後にミンダナオのイスラム教徒はスペインからフィリピンの統治を譲り受けたアメリカに対して抵抗し、1899年の比米戦争勃発とほぼ同時にモロ・アメリカ戦争が勃発。中でも女性や子供を含む600人が虐殺されたダホ山の戦い(ホロ島、1906年)は有名で、現在でもタウスグ族には強い反米感情が残ってる。

 

 1915年のアメリカとの協定で王国は滅び それ以来、ミンダナオに住むイスラム教徒たちは、ミンダナオの西部に住むようになった。 (※

 

 次回、ミンダナオの歴史 近現代に続く。

 

 

※1 国際監視団(IMT)外務省ウェブサイトより。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/2/0226_05.html 
 2003年のフィリピン政府とMILF(モロ・イスラム解放戦線)の停戦合意を受けて、200410月、マレーシア(団長)、ブルネイ、リビアからの要員60名で発足。ミンダナオ 島コタバト市を本部とし、停戦監視活動を展開。200610月、我が国は新設された社会経済開発部門に開発専門家を派遣。しかし、20088月、土地 問題に関する合意文書の国内調整の失敗を機に、武力衝突が再燃し、治安が悪化し、同年11月末、マレーシア要員が撤退し、IMTは活動を一時停止していた。

 

2 日本からは、IMT社会経済開発部門において、元紛争地域の復興・開発ニーズの把握や支援案件のモニタリング、包括的開発計画の策定等を行う専門家を派遣。

 

※3 石井正子『女性が語るフィリピンのムスリム社会―紛争・開発・社会的変容』Stories of Muslim Women in the Philippines: Armed conflict, Development, and Social change 9

 

※4 大野拓司、寺尾勇文編著『現代のフィリピンを知るための60章』26

 

※5 石井54頁、1519年にスペインはマルク諸島を手に入れるべく、マゼラン隊を派遣。マゼランはセブ島近くのマクタンで戦死するが同隊はその後も航海を続け、サンギル諸島を通り、マルク諸島に到達する。そこで、マルクの領有をめぐりポルトガルと衝突する。

 1529年スペイン国王カルロス1世はポルトガルとサラゴサ条約を結び、マルク諸島の領有権をポルトガルに譲り、マニラを拠点にしてフィリピンを植民地化することに専念することとなる。しかし、その後スペインはポルトガルを併合したために再びマルク諸島への勢力を拡張することとなる。マルク諸島へ進出する拠点として、マギンダナオに遠征軍を派遣した。そのため、スペインとマギンダナオ王国との間に「モロ戦争」が起こった。

 

※6 イスラム世界における君主号(君主の称号) のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。

 

7 日本軍の占領時代、ミンダナオのイスラム教徒も抗日人民軍(フクバラハップ)と同様に日本軍に抵抗、「モロ大隊」と呼ばれ戦ったが、アメリカ極東軍は日 本軍を駆逐した後に彼らがアメリカにも矛先を向けると確信、モロ大隊に武器を供給しなかったという。
 Inside News of the Philippines,フィリピン、ムスリム関係史  ]

 http://www.ph-inside.com/site/kiso/his/his_9.htm  より

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