書くという事―1000年後の世界に向けた約束―
2009年 05月 20日
物を書くのは難しい。ブログにせよMixiにせよ、一度書き始めた事を書き続けるのはなかなか難しい。
今まで立ち上げてきた数々の自分だけのメディア。ブログ達。
彼らの死因は共通している。
最初は意気込んで書くものの、アクセス数も伸びずいい加減書くのも飽きて3ヶ月頃には情報発信を止めてしまう。いわゆる3ヶ月坊主である。
数ヵ月後、ふと思い出してブログに立ち寄ると、パスワードが思い出せない。パスワードを忘れた時のクイズの回答さえも思い出せない。
ログインの方法を失ってしまい、更新も削除すらも出来なくなった。そのメディアはいよいよWeb上に浮かぶ幽霊船と化す。
そもそも、人にとって“書く”のは目的があるから書くのだ。
書く事だけが目的となっては、その文章は存在する意味を失ってしまう。
それでは、人は何故書くのだろう?
文章を書くという行為が始まったのは、遥か昔、5000年前のエジプト文明のヒエログリフにさかのぼる。その文字は上流階級の人間しか読めない文字で、主な目的は情報共有や歴史書の作成等だった。
それ以前にも、もはや絵なのか字なのか判らないシュメール語があったり、原始では洞窟に絵を描いた。
人は、そうやって何かを書いておきたかった。
書くという行為の目的は、いろいろある。
情報共有や約束を取り付ける為であったり、取り留めの無い想いから愛しい想いを伝えるものまで。
最近は色々なブログやホームページを見たり、書籍を読む。人はしきりに何かを書いている。
成功の為の組織作りや顧客の誘引、スポーツ選手の活躍から誹謗中傷、人の心を打ち震わせる文章から人の心を打ち砕く文章。
文字の羅列からは、人々の生活、能力、生き様、思想が如実に現れる。
紫式部が1000年も前に書いた文章を通して感じるもの、それは今の日本人の情緒が過去の人のそれと笑ってしまう程に変わらない。そんな事に不思議な安堵感を覚える。
私達が今書いている文書を1000年後の人々が見たら、いったい私達の何にどう共感してくれるだろう?そんな事をふと思うものだ。
Chiro
