命と引き換え?五輪の栄光

2008年 09月 09日

北京オリンピックが数々の名勝負を残し終わった。
読者の皆さんも、どの競技にも応援に力が入ったことだろう。

 

 

だが、日本女子陸上界にさんぜんと輝く大記録を打ち立てた女性をご存知だろうか。

 

 

その名を人見絹枝(ひとみきぬえ)という。

 

 

 
人見絹江(1928年)

 

身長170センチ、体重56キロという、
当時でいえば日本人離れした体格の持ち主であった彼女は、
16歳で走り幅跳びの日本新記録をマーク、
第2回万国女子オリンピックに出場したときは、
日本人でただひとりの出場であった。

 

 

しかも多種目かけもちという状態であったのにもかかわらず、

走り幅跳び決勝に残り、

手に6ヶ所のスパイク傷を負いながらも5メートル50センチを跳び、

世界新記録で優勝。

ほかの種目でも3位以内に入り、すばらしい結果を残した。

 

 

日本人の女性のイメージは、当時芸者しかなかったが、
彼女の奮闘は文字通り「イメチェン」となったわけである。
 

 

しかし、「人見伝説」はこれで終わらない。
第9回オリンピック出場の際、

100メートル準決勝で4位に終わり決勝進出がならなかった
(この大会で初めて女子の陸上が採用され、得意の走り幅跳びはなかった)。

 

 

このままでは日本に帰れないと一晩泣き明かし、
メロンを一口食べただけ、超寝不足の状態で、
一度も走ったことのない800メートルに出場を決意する。

 

 

 

 

最終コーナーの時点で、1位まで15メートル、2位まで4メートルもあった。
もうダメかと周りがあきらめかけた瞬間、彼女は猛スパートを見せ、
2位を抜き、1位まであと2メートルというところまで追いつめるも、惜しくも2位。

 

 

それでも、長い間彼女の精神力は語り草となった。

 

 

このころは、まだ遠征費や練習時間が確保できない選手が多かった。
人見自身もその一人で、大阪毎日新聞の記者をしながら
遠征費の工面のため寄付を集めて回っていたほどで、既に体はボロボロ。

 

 

昭和5年の万国オリンピック大会で7キロもやせて帰国後は、
肺炎などにかかり24歳で亡くなった。

 

 

命をかけてまで、と思うかもしれないが、
人間は一生の思いをかけてまで成し遂げなければならないときがあるということを、
彼女は文字通り身をもって教えてくれたのではないだろうか。
 

 

写真の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

GTS

 

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