国家という枠組み

2008年 09月 01日

 オリンピックが終わったらしいですね。

 

 今回も一回も中継を見ることなく終わってしまいました。人生の中でオリンピックを熱中して見た記憶がないので、比較して今回は盛り上がっていたのかどうかは分かりませんが、まあまあだったんじゃないでしょうか(曖昧ですねえ)。
 まあ、多くの日本人が「国」を強く意識する期間だったのは間違いないでしょう。

 

 

 それよりも、私が「国」というものを意識したのが、アフガニスタンでNGOスタッフの男性が拉致され、殺害された事件でした。
 亡くなられた伊藤さんには謹んでお悔やみを申し上げます。

 

 今回の事件を受けて、アフガニスタンで活動しているJICAや他のNGOも日本から派遣しているスタッフを日本に帰還させることを検討しているようです。
 ドナー国から派遣するスタッフの安全確保を最優先するのは、ドナーの心情を考えても妥当な判断と言えます。

 

 テロや紛争で日常的に人が「殺害」されているアフガニスタンの現状が、日本においてニュースとしての価値をほとんど失ってしまっている中で、一人の日本人の死がここまで大きく取り上げられることに、若干の違和感があります。

 しかし、普段は自分自身もアフガニスタンを「忘れられた国」にしてしまっているわけで、人が意識と関心を向けられる射程は決して長くないことを感じます。

 

 

 近代国家のミッションは、「国民の生命と財産の保障」ですが、あくまで対象は国民だけです。そして、そのパラダイムは、普段は人権だとか世界平和だとか言っていても、このようなギリギリの限界状況の中では、今も決して変わっていないんだということを実感するわけです。

 

 権利は、国家や社会に対する自由のように受け取られ、反国家的なイメージもありますが、突き詰めていくと、最終的には国家によって保障され、守られているわけです。極論すれば、「人間としての権利=人権」はフィクションであり、存在するのは「国民としての権利」だけだとも言えます。

 

 そんなことを考えたりしました。(Aki

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