殺戮の荒野
2008年 08月 21日
私も学生時代に引越しのバイトをしていたとき、
とある問題児の先輩に会った事がある。
彼は仕事も速く的確に件数をこなしていくのだが、
対人関係において大きな障害を持っていた。
新人を殴り、同僚をボコボコにし、派遣に逃げられたりと、
評判はすこぶる悪く、また客のクレーム件数も多い。
しかし、何故このような横柄な振る舞いが許されていたのか。
それは、彼が結果が出せるからだ。
クレームが多かろうといざこざを起こそうと、
こなす件数が多ければ当然店の売り上げはあがる。
その為、誰も彼に物を言うことが出来ない。
支店長でさえ、彼にはものを言うことが出来ない。
しかし大きな現場でリーダーを任される事もない。
多くて2、3人の現場でリーダーを任されるに過ぎなかった。
周りの人間からの評価も悪かったからだ。
そして、彼はあくまで正社員ではなくバイトだったのだ。
一度、その彼とペアを組んで仕事をしていた事がある。
お客の荷物を載せて移動先に向かう途中、
彼がふと昔話をしてきた事がある。
親の離婚がキッカケで大学の中退した、という事。
自分で自活する為に引越しのバイトをはじめ、
それからずっと何年も続けてきたという事。
彼がどういうつもりで自分に身の上話をしたのか判らないが、
その2日後に今度は自分が暴力の対象となった。
殴りかかる彼の目を見てハッキリと感じたのは、
こういう人物ってどこにでも存在しうるなぁ、という事だった。
恨み、悔しさ、劣等感、惨めさが間違った人格を形成する。
自分のアイデンティティとも言うべき家庭を失った人間の不安定さ、
まじまじと実感せざるを得なかった。
今日の社会でも、会社員の自殺や暴力、人の良心にもとる詐欺、
追い込まれた人間がしでかすとんでもない殺人事件など
様々な信じられないニュースで溢れているが、
“普通の良識”で考えれば、そんな事が起こせるはずが無い。
“何か大切なものが崩壊してしまった”。なにかそんな気がする。
私はカンボジアでポルポト政権の虐殺指導者の写真を見た事がある。
彼らの顔を見て、私は「案外普通の人だな」と思った。
ただの冴えない普通のカンボジア人のおじさんたち。
この人たちが乳飲み子の足首をつかみを頭を木に打ちつけ、
婦女らの服と尊厳を剥ぎ取り、人々の爪をはがし頭蓋骨を砕き、
辱め痛めつけ踏みにじった人々とはとても思えない、
普通のカンボジア人の顔だった。
法で守られた日本でも、今は次々と信じられない殺人事件が起きている。
法律という柵で押さえきれない憎しみが、社会に渦巻いているようでならない。
そんな恐怖は案外身近なところにあって、何かの発端に歯止めが利かなくなる。
その時に目も充てられない悲惨な事件に発展するのだろう。
今は日本は年間3万人以上が自殺する異常な状況になっている。
内戦が起きたとしても、普通は3万人も死なない。
人が自ら死を選ばざるを得ない社会。死んだ方がマシな社会。
冷ややかな風が吹きすさぶ「殺戮の荒野」は、私たちの身近にある。
誰のそばにもある。
法律や制度では抑えきれない、大きな憎しみ。
それは、途上国で襲い掛かる貧困や民族間の憎しみの螺旋と似た様相で、
世界中に漂っている。
それを食い止める力が、“大きな流れ”が必要なのではないだろうか。
身近な問題と世界の問題は、根本は同じルーツから来ている。
今になって振り返ればそう感じてやまない。
あの時27歳だった彼は、今はすでに30歳になっているはず。
あれからどうしているのだろう。
周りの人とはうまくやれているのだろうか。
ふと心配になった、とある日の午後。
(Chiro)
