故郷への巡礼
2008年 08月 13日
故郷(ふるさと)。この言葉を聞くと、人は誰しも心を動かされる。
だが、それがどのような形で動かされるか。それが問題である。
通常、我々はどこかで、故郷に帰りたいと願う。
盆暮れ正月の帰省ラッシュ。別に珍しい光景ではない。
なぜ、人は故郷を求めるのか?
今であれば、回答はそう難しくない。
そう、アイデンティティである。
「○○県民」「○○出身」
こうしたアイデンティティが、ある種の人の心の拠り所となる。
故郷には、個々人のアイデンティティを形成する上で、
決定的な、何かがある。
この「アイデンティティ」という用語を編み出したのは、
心理学者のエリクソン。
興味深いのは、エリクソン自身も、自身の心の故郷を求めて、
長年遍歴してきたというのである。
故郷とアイデンティティには、密接な関係がある。
そう考えると、故郷のある種の喪失は、
アイデンティティの喪失に直結する。
戦争により故郷を追われた難民。
難民の悲惨さは、生活上の問題もあるが、
それ以上に、アイデンティティを剥奪された悲惨さにある。
また、幼児期の体験に大きな心の傷があると、
それは故郷の喪失につながる。
児童虐待は、子供たちの故郷を奪う行為なのだ。
自分の故郷を誇って生きること。
それは、地域エゴに直結する可能性が高いことは、
百も承知である。
だが、それでも人間は、自分の故郷を誇らずにはいられない。
なぜなら、それは個々人のアイデンティティにかかわる問題であるからだ。
それにもかかわらず、自分の故郷を誇ることができない場合、
それは大変不幸なことではなかろうか。
どのようにして、自分の故郷を誇ることができるようになるのか。
そして、次に他者にとっての故郷を、どれだけ尊重することができるのか。
多文化共生社会と呼ばれ、おそらくは「故郷」についての観が、
さまざまに変化していくであろう今後の社会。
その中で、どう各人が故郷を見つけ、他者の故郷を尊重できるか。
道のりは、おそらく相当に険しいであろう。
日本こそが我が故郷という人々にとっては、
外人がその故郷を土足で踏みにじるのは、
耐えがたい行為には、違いないのだ。
だが、ここで安易に「世界が故郷」という論を
採用するべきではない。
そんな故郷は、実感としてはあまりにも遠すぎるからである。
実感できる世界での故郷を維持し、
しかもその故郷について思いをはせつつ、
他者の故郷について(異文化の人も含めて)思いをはせられるか。
道のりは遠く険しいが、
未来を確信して、一歩一歩を歩んでいくしかない。
故郷への巡礼の旅は、まだはじまったばかりである。
(隠者)
