開発における矛盾と、自己の再構築の必要性
2008年 07月 03日
【心のレンズは濁っている】
この世界には“立場”や“職業”“国”“人種”と様々な偏見やレッテルが存在している。
時としてそれが人々の心をゆがめ、視点をぼやけさせ、言葉を捻じ曲げる。
かく言う私も、その偏見に踊らされている一人である事を素直に認める。“途上国”と呼ばれるこの地に住まう私は、その偏見に陥る自分と日々激しく戦っている。
“途上国”と聞くと、どんなイメージが湧くか。
だいたいの場合、出来上がったイメージや情報、あるいは経験から、出会う前からすでに相手について様々な前提条件をセットしてしまうものだろう。それは避けがたいレッテルで、意識しているしていないに関わらず心の根底にしみついている。
途上国にまつわるレッテルは、大きく分けて2種類ある。
パターン1「貧しくて可哀想的レッテル」
途上国の人(特に子供)は純粋で夢があって、でも貧困の為にそれが叶わなくて、心に傷を負って、貧しさと病気で毎日泣いている。女の人は自由ではなく虐げられ、男は仕事も無ければ知恵も無く、子供達も学校に行けなくて目をウルウルさせて、とっても可哀想。
だから、なんとか助けてあげないといけない、というもの。
主に途上国にちょこっと行った事のある人、または海外に興味があり愛着がある人にナイーブな人に多い。
パターン2「怠惰で愚かで原始人的レッテル」
途上国の人が貧しいのは彼らが愚かで怠け者で、しかも将来を見通す考え方が出来ないからだ。ある意味で自業自得である。
私たちに出来る事は、せいぜい道路を作ったり、自分たちの国の素晴らし~い知識と知恵を、何も知らない奴らめに叩き込んでやる事くらいだ、というもの。
主に、海外の経験が長い人、実務に携わってきた人、“ボランティアにだまされた!!”と思っているシャープな人に多い傾向。
どちらの場合も、共通しているのは「現地人には自分で自分たちの暮らしを向上させる力がない」という 観点であり、方向性は“上から下”に向かう。
この観点の根本にあるのは、都市、先進国を「中心」と見なし、「上」にあると思っている価値観そのものである。田舎は「周辺」であり、田舎に行く事は「下りる」事だと思っている。
その観点は、あながち間違ってはいないのかもしれない。
【不平等な世界】
残念なほど、この世は不平等である事に気づく。
先進国では、その気になれば夏休みや冬休みに、自分で働いて稼いだお金を用いて海外を飛びまわり、色々な土産物を買い漁りながら、市場で値段交渉を楽しみ(結果として倍近くの値段で買わされるのだが)、めでたく“国際人”になる事が出来る。
しかし、途上国の田舎の人が、自分の休暇に東京やニューヨークに行ってきて…なんて事は、一生無い。一人分の飛行機代だけでも家庭の10年分の全収入を注ぎ込まねばならない。滞在費やその他の経費全てを含めたら、おそらく40年働いても東京観光なんて実現しない。そもそも彼らは、飛行機のチケットがどこで買えるのかも知らない。
日本に住む限りにおいては、子供が最初から何人か死ぬ事を計算に入れたりする事もなければ、病気に対してなすすべもなく放置する事も少なく、国家権力の象徴たる警察に理由無く逮捕されたり賄賂を請求される事も無い。
工業化された都市に住む私たちと、原始的な農村に住む多くの人々。この間に横たわるどうしようもなく高い不平等の壁は、専門性を得て、知識を得て、訓練や高度な教育を受ければ受けるほど高くなる。
最も目が当てられないのは「自分は高度な教育を受けた選民として、この愚かで怠惰な大衆に対して教育の義務がある」という高慢な選民思想が染み込んでしまう事だろう。そして、その傾向は問題意識の強い人ほど強い。
悲しい事に、この思想は外国人だけでなく、都市に住まう現地人にさえ染み込んでいる。
この壁は、もはや越えることの出来ないものなのだろうか。
【“発見された”伝統的な知恵】
その反面、近年世界じゅうで、これまで信じられてきた社会的ダーヴィン主義思想が覆されるケースがしばしば見られる。
地域に伝わる伝統的な食生活、農業、健康法などの知恵が、科学によって“再発見”される事だ。ヤギの糞が、かなり栄養価の高い肥料であり研究の価値があるにも関わらず、研究されてこなかったという矛盾は有名だ。
また、経口保水による下痢の対処も、科学的にパックされた水ではなく母親の母乳やお粥が効果的である事はよく知られている。既存のものが、見直されてきている。
その他、動物の見分け方、肥料の作り方、天候の見極め、魚の居る場所の見つけ方など。地域の人々の持つ知恵の奥深さとカテゴリーの広さは文字化されていないだけに、驚くばかりである。
家族の命がかかっている人々にとって失敗は許されない。そのような真剣勝負の中で生み出されてきた知恵は、温室で育った科学の知恵や教科書をはるかに凌駕する事は疑う余地は無い。
専門家がその分野においてプロであるのと同時に、その村に住む人々は地域生活のプロなのである。人は生きている限りにおいて、道を見つけ出す。人は決して怠惰で愚かな生き物なんかではない。
【新しい発見はまず“自分”から】
それでも、農村の知恵や習慣が万能では無いことは間違いない。
下痢になった子供には水をあまり与えないようにすれば下痢が止まる、出産直後のへその緒を台所にあるハサミで切る、貧しい人とは前世の行いが悪い者だから報いを受けている、など。
細菌の存在は顕微鏡でなくては確認できないように、科学の発見がもたらした恩恵の大きさは計り知れない。マラリヤが蚊から伝染してくる事実は、科学の力無くしては発見されなかった。
農村地域の生活の知恵や習慣が誤った方向に向かっている事例は、怪我、病気、妊娠出産など、主に保健衛生の分野で多い。それは、人の誕生や死にまつわる事は物理的な事としてではなく、精神的な事として受入れられているからなのかもしれない。
村の経済のシステムや不平等さや、パトロン的な権力構造は外からの介入無くして解決する事は絶対にありえない。ますます不利益をこうむる人々が増えている事は事実であり、助けが必要な人はあまりに多い。その実態は知れば知るほど怒りを覚えるほどひどく酷い。
外来者の長所はどれか、地域の知恵の長所はどれか、どのようにバランスをとれば調和した発展が出来るのかは、100の村があれば100のアプローチがあると思う。要は、関わり方の問題なのだろう。
相手から謙虚に学び、自分の考えを常に柔軟に、時に自己批判的に見つめ、物の見方、考え方、感じ方、学び方を常に省み、新たに自分を作り変えていく努力を怠らない事でしか、正しく問題を見つめる事は出来ないのではないだろうか。
結局は、一人一人の生き方そのものの問題なのかもしれない。
Chiro
