若葉よ芽吹け  -未来を育む教育のカタチを目指して-

2008年 06月 17日

 東南アジアの某大学にて、客員講師として講義を行った時に思った事を書いてみる。

 

 

【評価する者される者】
 いよいよ客員講師としての授業の日程も終わり、学生を「評価」する側にまわった。

 

 

 

 

 3年前までは自分が教授に「評価される側」だったのだが、いざ「評価する側」に回ってみると改めて「あの時先生ってすごかったんだなぁ~」と感動してしまう。

 

 

 私が受け持った授業は”ソーシャルワーク”のカウンターパートとして、講義を行ったり学生達と共にコミュニティに入って活動を行う、「サービスラーニング」としての取り組みだった。

 

 

 自分が学生の頃は気づかなかったが、実際に教える側にまわってみて判った事が2つある。

 

 

 1つ目は、学ぶ者にとって負担の大きな授業は教える側にとっても負担であるという事、2つ目は、“人は思った以上にお互いをよく見ている (目は口以上にものを言う) という事”だ。

 

 

【目は口以上に物を言う】
 教える対象が100人以上であったとしても、さすがに3ヶ月も毎週顔を突き合わせていれば、よほど空気の読めない人間でなければたいていの人間関係は判ってくる。

 

 

 一人一人がどんな思いで教室に来ているのか、ノートを取っているのか。

 やる気のある学生が居ると、やっぱり嬉しい。
質問があるのはやっぱり良い事だと思うし、講義の裏を突くようなディープな質問は答え甲斐がある。それは、ちゃんとキャッチボールが成り立っているよ、という合図なのだから。

 

 

 

 逆に、「人生のモラトリアム」を謳歌しているとも言える学生たちも、一発で見抜けてしまう。
授業の出席率だけではない、座る位置、顔つき、受講態度など、一つ一つを通して「あぁ~早く終わらないかなぁ」というオーラも、教壇に立つと敏感に察知できてしまう。 
 そして、学生達も自分の事をよく見ている。しゃべり方やクセ、単語単語のニュアンスから意図を汲み取ってゆく。その事が、より自分を緊張させ、そして律してくれた。

 

 

【評価の矛盾】
 その講義やプログラムに託された願いは、「学んで欲しい、体験して欲しい、新しい自分を発見し道を切り開ける人に育って欲しい」という事だけだった。
 その為に、ありったけのエネルギーを注いでいるわけなので、授業の評価などしなくてもどの学生がどんなスコアなのかは、やる前から判っているはずなのだ。

 

 

 それなのに、人間はやはり数値として見える「評価」をしなくてはならなくなる。意味のないものに、意味のない数字をつける事に、なんの意味があるのだろう。

 

 

 

 「評価方法」について一度話してしまうと、モラトリアム学生はここぞとばかりに知恵を働かせ「抜け穴」を探す。矛盾ではあるが、公平の為に話した”評価基準”は一度話すと“公平”ではなくなる。

 

 

 残念だが、レポートや書類の捏造、陳腐な言い訳など、講師の素人である私でさえ提出物と本人の顔を見れば、たいてい見抜ける。
 ぶっきらぼうな言い方をすれば、私にとって彼らの成績の数値など(失礼だが)別にどうでも良い。
 要は「学んで欲しい事を学べたかどうか、成長できたのか」が問題であって、コピーレポートや捏造された出席カードなど、私にとっては勿論、彼らの将来にとっても何らの意味もない。無いはずなのだが…。

 

 

【皮肉な点数】
 いつしか点数は“人質”となり、学ぶ情熱と目的は”点数”なんていう確かで限りなく不確かなものへとすり替えられてしまったように思う。
 モラトリアム学生にも、そこそこ“生存可能”な措置を取る事で、単位喪失と留年の憂き目は避けさせたいと自分でも思ってしまう。
 

 


 昔、「白紙にちかいレポートで単位を取ったぜ!!」と言いふらす先輩が、どこにでも一人や二人いたものだ。どこでもその「楽ちん単位ゲット術」は尊敬の対象だった。
 でも、今考えればあれは「単位をとった」のではなく「生かされていた」ものだったと気づいてしまう。「お前はここがダメだ」と厳しく指摘し、人を落とすのも相当エネルギーが要る事なのだ。「ズルに気づいた」事が判るギリギリの点で生かしておく方が、教える側にとっては楽なのだ。(来年に顔を合わせなくて済むので)

 

 

【“最高学府” 若葉の芽吹く大樹へ 】
 国家における大学の存在意義とは、何だったんだろう。
 
 

 

 本来は大学は国の要となる人材を育成し、社会に還元していく場所だった。
 はるか数百年前、歴史の浅い大学は、それこそ若葉のようなみずみずしさが漂う、新しい発見と未来を感じる場、若者達の夢であふれる場だったに違いない。
 
 

 評価をする側にまわってみて、教育の存在意義について考えさせられる。
 いつしかマスプロ化し、誰でもスコアとお金さえ積めば大学に行ける時代になった。“人生最後の夏休み”と揶揄されるようになった。“大卒はそのままでは使えない”というのが社会の常識になった。それは日本に限った話ではない。

 

 

 大学とは一体若者に何を学んで欲しいのだろう。
 数値で測れるものだけではない、大切なもの、未来の夢を語る力こそ、大学で教えるべきものだったのではないだろうか?
 
 

 新しい教育のカタチ、それを見つける為の取り組みはまだまだ先が長そうだ。

 

 

Chiro

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