「素晴らしき日々」なんてのは自分で演出
2008年 04月 25日
海外生活もいよいよ2年目を迎えようとする。
さすがに最初は右も左も判らなくて戸惑っていたものだが、今ではすっかりこの風景も我が国のごとくになりつつある。
もう日本語を使う機会よりも英語や現地語で話す事が当たり前となり、日本語を使用しない日だってある。
日本では当たり前の世界、通勤ラッシュや、残業、飲み会といった社会人の修羅場(?)を経験せずにいきなり海外に出てしまった自分にとって、サラリーマン生活はどこか「憧れ的存在」になってきている。
「自ら考えて道を探さないといけない忙しさ」しか知らない自分にとって、「自分を律する規約や上司に使われる忙しさ」は結構まぶしく見える。
なぜか。ここには「自立」と「自律」という言葉意外には何も見つからないからだ。
機会さえ見つかればいつでも脱サラならぬ脱NGOしてしまいたいのもあながち嘘ではない。やはり人間というのは隣の芝生は緑に見えるんだろうか。
「日本の暮らしに耐えられない」
「日本で普通にサラリーマンをするのは退屈」
と、いう理由で海外に出る人が多いと思うが、私は理解に苦しむ。ハッキリ言って海外に住んでしまうとその構図は逆転する。
海外にずっと住んでいると、やたらと日本が恋しくなるものだし、自分は日出る国に生を受けたサムライの子孫という自覚がより強烈になる。
“ I am Japanese!! ” というオーラを全身から発せずには居られなくなる。
どこの国に行っても確実に存在するのは「日本人会」なる組織。
そこでは小さな空間の中に、実に濃厚なジャポネスクな空気がそのまま持ち込まれていて、そこに3日も居れば今まで私の心身を蝕んでいた“国際人”の瘴気はすっかり抜ける。
しかしながら、日本に帰った後の文化的不適合の恐れを抱える海外生活者にとって、日本人と国際人の狭間をうろつくのは結構苦痛だ。
かと言って完全に脱日本人するわけにもいかず、中途半端な境界を行ったりきたり、過去と未来に思いを馳せたりする作業は想像以上に疲れる作業だ。
いや、本当に疲れる。
そこで最近、私はこの自家撞着した二つの心のコンフリクト(葛藤)にピリオドを付けたいと密かに企んでいる。
「毎日を素晴らしき日々と思い、精一杯目標を持って生きる事」。これが意外と難しいし、何か突破口があるような気がしている。シンプルだけど強力だ。
一日一日に「楽しい充実した人生送ってるなぁ~俺」と、客観的な評価とBGMを付ける。まるで映画の主人公になったつもりで毎日を懸命に生きてみる。
自分の思っている内容次第で会う人の印象も仕事ぶりも随分変わってくるはずだ。
時として、遠い先の人生を考える事や、人生のプランとか考える事によって、余計な不安を煽いだりブルーになる事がある。
先行きが不透明ならなおさらだ、何かスランプに陥っている時にはそんな行為は逆効果。時間を費やすだけ無駄である。
ここは開き直って、見えない明日に向かって不安がるよりもまず、今日という一日を精一杯頑張って、目の前の人々の為に楽しく堂々と生きる事のみにフォーカスしてみるべきじゃないだろうか。
「俺は一日を精一杯やった」と思える日を3日、一週間、1ヶ月、半年、続けてみる。とりあえず目の前の仕事にがむしゃらに取り組んでみる。
「人生成功する方法」みたいな本の多くも結局最後は目の前の小さなアクションに結論を持ってくるのはその為だと思う。そうでなければただの空想の本か、うそっぱちだ。
先の見えない不確かな明日の事なんか、今は要らない。
要るのは明日につながる確実な“今”をどう生きるか、だ。時にはそんな時があっても良いんじゃないか。
明日も今日も昨日も関係ない。今という時を、ただひたすら真剣に生きる。
がむしゃらに生きてさえいれば、もっと大切な何かが見えるんじゃないだろうか。見つかったら見つかったで、そん時に立ち止まって、また吟味すればいいんじゃないか。
最近、私はそう感じている。
それが若さからくる驕りだと、半ば認めつつも。
Chiro
