『勉強する』ということ

2007年 12月 21日

生徒とつきあいながらいつも考えていることがある。
「勉強する」ということだ。
この言葉にはある種の強迫観念さえつきまとう。
これは誰にも経験のあることであろう。

 

お母さん「なにやってるの!遊んでる暇があったら勉強しなさい!!」
先生「宿題わすれたぁ?!何しに学校来てんだっ!
        そんなことじゃいい大学行けないぞ!」

 

                 

 

でも、いったいなんのために勉強するのであろう?
よく考えてみればだれもそんなこと教えてくれなかった。
気づけば、「学校」という名の「遊び場」というか「監獄」(?)に通っていた。
そういうものだ。
だが、生徒に尋ねられてふと立ち止まって考えてみたのだ、
勉強するということを。

 

 

ピースメーカーを目指す私などは、以前からこう答えることにして(・・)いた(・・)。
「勉強はね、社会に役立つためにするんだよ。
今まで自分を育ててくれた社会に感謝をこめて働くためにね。」
ちょっとカッコいいと思っていたのだが、
どうも生徒らにとってはあまりしっくりこないらしかった。
そこでもう一度考えてみた。
働くということは、自己実現であると同時に社会貢献の方法である。
このことについては異論はない。
しかし、その前段階としての「勉強する」とは、その準備という位置づけだけで、
果たして足りるんだろうか??
もっと深いのではないか?
だって、最近では「勉強ブーム」らしいじゃないか。
大人でも、朝早い時間から集まって勉強会を開いたり、
休日にわざわざセミナーに参加したり・・・・・。
涙ぐましいではないか。
若い頃はあんなにいやだった勉強を、
自ら高いお金と労力をつぎこんでまでする不思議。
ここには、なにか「魔力」があるような気がしてならない。

 

そこではたと気がついた。

 

勉強するのって、ときに苦しい。
自分をおいつめる作業である。
それでもそれをしてしまうのは、
それを乗り越えた先に何かあることを本能的に知っているからではないか?
自分を掘り進めた結果、得られる何か。
それこそ、「本当の自分」またはそれに近いもの、なのではないか?
つまり、勉強するとは、「自らを知る作業」といえるのではないか!

 

               

 

私は、このような結論にたどりついたのである。
つい最近のことだ。
このことを考えていると、自分の勉強に対する姿勢を振り返らずにはいられない。
もう少しがんばれたのに、途中で妥協した自分。
成し遂げたいことがあるのに、やるべきことから逃げ出そうとする自分。
あのころのことを思うとき、
今の自分の欠点とおおいに重なることに気がつく。
そうなのだ。
勉強するときの姿勢が、そのまま、人生の歩み方に表れている。
逆に言えば、
勉強すると、自分が見えてくる。欠点を知り、長所に気がつくことができる。
幼きころより、勉強勉強と追い立てられてきたのには
そんな理由があったのかもしれない。

 


生徒たちには、いまはこういうことにしている。
「勉強はね、自分を知るためにするんだよ。
 勉強すると、その仕方や姿勢に人間が表れる。
 そこから自らの長所、欠点を見つけ、その先の人生に役立てるのさ。
 そして、お世話になった世の中の人々に尽くす。
 そう、それが人間が人間として生きるということなんだよ。」


    (G.T.S)

 

 

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